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ミジンコブログ

徒然を、不定期で。

電車は、すべての人が乗ることのできるものですよ。

育児 ブログ はてな

http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20120902/p1
↑このエントリは、一見子連れに対する理解を示したような内容に見えるけど
「電車は通勤に使う人のためのもので、やっぱりラッシュ時のベビーカーをなくしていくのがいいんじゃない」
という提案に他ならない。
この方の論の最終的に目指すものが、
“朝の通勤者の、通勤者による通勤者のための快適な車内環境”であるとするなら
それは違う、といわざるを得ない。
 
私は自分の以前のエントリで、ベビーカー子連れに対して
「混んだ電車じゃなきゃいいんじゃないの?」という一文を入れたが
これは間違いだったと今は思う。
でもこのときの私さえ、「電車が混む」のは「通勤者のものだから」なんて
思ってなかった。
電車に乗るのは、何も通勤者だけではない。
乗る人の中ではただ一番多いだろう、というだけだ。
安全面から子連れのほうも極力ラッシュを避けたほうがいいとは今でも思うけど
そもそもラッシュ時にベビーカーをなくしていくにはどうしたら、という論には
賛成できない。
朝の電車を「通勤電車」と断定する見方は非常に乱暴だ。
 
また、ベビーカーで朝の電車に乗るのは保育所に通うためだけではない。
あのエントリのような書き方は、
「じゃあそういう理由以外でベビーカーが乗ってたら、やっぱり白い目で見られて当然ってこと?」と思ってしまう。
満員電車における対策で、誰かが電車に乗るのに
「のっぴきならない事情があるのだろうな」と考えて相手を思いやるのはまだしも
「のっぴきならない事情がなければ乗るべきじゃない」という考えが蔓延るのは好きじゃない。
このエントリの人がそこまで言ってるわけじゃないのはわかるんだけど
何で「保育所云々」までの想像で終わっちゃうのかなあと思う。
 
通学する子供。
通院する人。
何かの稽古に行く人。
ボランティア活動する人。
夜働いて朝帰る人。
――――――っていうか、知人に会いに行くのだって買い物だって
遊びに行くのだってなんも理由がなくたって自由なはずだ。
何かいわゆる高尚な理由がないとダメなのだろうか。
 
こういった議論で、他人の理由や事情をおもんぱかって、
その上で「皆さんいろいろあるのだろうな、譲ろう」となるんではなく
「解消するにはまずああしてこうして」となるのは
解決方法を示す意欲はわかるんだけど、いつも想像力のなさから来る抑圧がありがちだ。
“わざわざ混んだ時間に乗るからには、
万民が納得するようなそれ相応の理由があるんだよなぁ、え?
だからそれ以外の理由なんて糾弾されても仕方ないよな?”
・・・みたいな圧力を感じるのだ。
『通勤>>>>>>>>>>その他』という話の上からだから、なおさらそう感じるのだと思う。
 
本来、乗車料金を払えば誰がいつ乗ってもいい。っていうのを忘れてないだろうか。
その中でみんななるべく譲り合いましょうっていうのが大前提なはずなのに
朝夕は通勤で使う人が圧倒的に多いから、その人たちの論理に合わせましょう、じゃ
そりゃあいつまで経っても「ベビーカーは迷惑」というのはなくならないよな・・・
「“通勤”電車の環境を悪くするだろう要素の乗客は減らす方向で」の考えは
結局ラッシュ時の閉塞的な空気は変わらないと思う。
 
空いていて、急ぎでない状況・環境なら誰が乗ろうが許せる。
でもラッシュ時の、ひとがぎゅうぎゅう詰め込まれた空間では
他を許せる心の余裕がない!!仕方ないんだ!!というなら
それはもうベビーカーだけの問題じゃないよなあ。
ほんとうに「通勤電車」という名の電車を作るか
「通勤客以外の乗客専用車両」を作るか。みたいな。
ボロッボロ問題がでてくるのはこの段階でわかるけど。
 
私には満員電車を緩和するような画期的なアイデア!は思いつかないけど
どうせ「朝夕の電車は混んでいて当然」という状況を変えられないなら
「通勤者がすし詰めでイライラしてるのが当然」というとこで止まるんじゃなく
せめて「いろんな事情の人がいて当然」という意識を持つほうが社会的に健全だと思うわ。
その上で保育所増設なり、タクシー割引なりって提案が出てくるなら
本当にありがたいのだけどね。